君へ


午前9時起床
いつもより2時間遅い朝を迎える

食パンにハムと鶏卵を落として
トースターに放り込む

コップに一杯の牛乳を注ぐ

労働を免除されながら給料は保証されるという
清々しい、有給の朝である

そして、20数年連れ添った君との別れの朝である


トーストの耳は香ばしく
桃色のベッドの上に、シーツを被った黄金が眠っている

春の祭りで手に入れたパン皿に
露を零しながら君との最後の晩餐を噛みしめる

普段飲みもしない牛乳を舌の上で転がす
君が好きだと思って


こんな日は、歯ブラシに山盛りの歯磨き粉をのせて
シトラスミントと顆粒を堪能する


美味い


こっちの方が、君は好きかもしれないね

自転車に跨がって、坂道を下る
風が頬に気持ちよい

君との別れに向かっているというのに
この坂道が、風が私と君を乗せた車輪を転がして
約束の場所に運んでいくのだ

お姉さんはマスクの下にも笑顔を湛えているのであろう
目尻に優しい皺を寄せて出迎えてくれた

私と君はそのときが来るまで
君の姿を模したスツールに腰掛けて待っていた



君との出会いは高校生の時だったね
最初はよく分からなかったけれど
遠くて近いところにいて

顔を見せてはくれなかった


それでも私は
ちょっと大人になれた気分で
君の帽子を優しく撫でたりもした

大きくなった君は気分屋で曲がった奴で
気に障る奴だったけど
もう既に、私の一部だったんだ


私の名を呼ぶテノールが聞こえる


この扉の先で、私は君とお別れをする




20数年間の人生を連れ添った君とお別れをする







浅葱色の衣装に身を包んだ仲人の男が私たちに微笑みかける

私たちの記念写真をみて
これはしぶとそうな子だねぇ と顎に手を添えるその声がどこか楽しげなのは

君の脚が彼の好奇心を擽っているからだった



男は刃を握り
私の肩にも介錯されるべく浅葱色の布が掛けられ
影も無く照らされる君に
私はそっとキスをした

鋭い衝撃が刺さる
20年の日々が駆け巡る

これは痛いかな、と男が私に問う

痛いです
君との別れに、私は痛みも感じないなんて
痛いです、先生




親知らずが、痛いです







ドリルが頭蓋に響く
顎に成人男性の体重が乗り
痺れた舌に鉄の味がこびり付く

穴から沼の主を引きずり出すような
ATMをバールでこじ開けるような
建築現場で岩盤を発破するような


先生と君の血で血を洗う死闘が
繰り広げられている

本当は君だって
先生だって争いたくは無いのだろう

君は兄弟達の中で一番遅く生まれ
ハムエッグの味も トーストの香も
シトラスミントの泡に撫でられることも無かった

生まれたとき、生きる場所は既に無く
厄介者だと兄弟達に虐げられていた

故郷は進化の果てに縮小し
君の存在は故郷の営みに必要ないとされた

そうして初めて浴びる光は
君を終わりへと誘うのだ

君は今、誰よりも眩く生きている
まだ生きたいと叫んでいるんだ

私にはそれが、痛いほどに分かるのだ





1時間ほど経っただろうか
辺りが静かになり、顔に載せられた布が払われる

終わったのだ

私を迎える眩い光の中に、君はもういない


口を濯いで吐き出したのは
君の涙なのだろうか

何も感じない


君の居ない穴を埋めるように綿を噛む

君は銀盆の上で砕けて横たわっていた
友の変わり果てた姿
終ぞ私は、君のことをちゃんと見てやれなかったな

「連れて帰ります」


綺麗にしてあげようね と微笑んで額に光る汗を拭った


先生は君の命を奪ったその手で
私が君にしてあげられなかった歯磨きをしたのだ









君は小さな棺に入って帰ってきた

奇しくも棺は君の生前の姿をしていた

折れたときは牛乳に漬けておくといい、と私に教えたのは
小学校の担任だっただろうか

今朝の牛乳は、君を優しく撫でただろうか

棺と繋がれた輪ゴムを腕に結んで
なくしちゃいけないからと囁くと
君はカランと笑った





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