荒野の宝石
有料道路を行く。信号はなく、ただ車線が林間を進むのである。
やはりこの高地も霧に包まれて、行く先は見えない。峠を攻める羽根をつけた武士たちを何度かいなして進む。その度に、尊大ゆえに寛大な運転手は、霧の中に消えていくハザードランプを満足げに見送るのである。
同行者が疲れ果てて寝静まる夕刻の旅の道連れは音楽である。対向車もない静かな峠道に、湿り気のある弦楽四重奏はこの上ない。チェロの低音は鬱蒼と繁り深い緑を塗り、険しい山々をヴァイオリンが左右に掻き分ければ、アスファルトをヴィオラのフォグランプが照らすのである。そこに鼻歌を混ぜるのもまた楽しいのである。一人また二人と意識を取り戻せば、視界に入った看板を全て宣誓する。下道に降りて、黒地に黄の毛筆で記された宣教看板を認めれば、勿論嬉々として触れ回るのである。このキャラバンでは運転手に、それが許されているのである。
やがて亜高山帯の荒野に立つ。岩肌が剥き出し、所々に針葉樹の朽ちた株が行きどころもなく立ち尽くしている。その根が抱える巨石の隙間から白い煙が立ち込めて、辺りには硫化水素の香りがぬっと漂っている。谷を束ねる小川も異様に白濁し、生物の気配はない。その傍らで、コメツガやトウヒ、ダケカンバの緑がより一層深く見える。白い砂利の中に低木のアカモノや豚菜、笹や幼い針葉樹、苔類だけが強かに集落を築いている。その不毛と境界はまるで線を引かれたように、混じることがないのである。
白地の不毛には、黒や褐色、紫の小石が転がる。そのどれもが隣り合わないのが面白い。蒸気が噴き出す岩の割れ目周辺は一層、黄が冴えている。橙の石に混じって、ぽつりぽつりと生焼けのハンバーグのような赤が転がっている。その脇に、焼けこげた真っ黒があれば、少し藍を溶かしたような艶のある石もある。私は星雲を写し取った地面の中から、輝くいくつかを拾い上げると油絵の具を絞ったパレットをこの手に収めたように鮮やかである。私は熊笹にこれ並べ、山道の隅に置いていった。
チェックインを済ませ、荷物を運び込む。通された部屋は八畳ほどの一間に、絨毯張りの公縁には円卓が置かれ、出窓から先ほどの荒れた谷が見下ろせる。
評判だという露天風呂を目当てに、日帰りの入浴客が帰ったあとを狙って浴衣に腕を通す。宿から少し離れた風呂を目指して再び宿の表に出ると、曇天からは既に小雨が降り出していた。こんな日には道中が酷く泥濘むのだと、言う宿の主人に勧められて、浴衣に長靴を履く。全く、この長靴が大きくて仕方がない。それでもこのトンチキな格好も、間抜けな足音も主人のお墨付きというのだから、私はこれ見よがしカポカポしてやるのだ。
熊笹の斜面に建つ極楽湯へは、さほど遠くない。百歩も歩かないうちに木造の湯屋に辿り着く。脱衣所に羽織を脱ぎ捨て、帯を引き抜き、浴衣から抜け出す。手ぬぐいを引っ掴んでトンネルを潜る。3メートル四方ほどの木枠に、白濁した湯を湛える。谷の底の湯畑から源泉を汲み上げているのだというそれは、白い地を煎じたような色をしていて、黒や褐色、赤や紫の気配はない。それを一回り大きく、流木や簾、木の柵が囲い、客は私の他に中央に浸る切り株だけである。その中へそろりとつま先から浸す。少し熱いくらいの湯は最初に皮膚をチリチリと煮るが、次第にじんわりと心地よい。その四隅の一つに腰を下ろして、ほうっと息をつく。硫化水素に木の香が混ざって、立つ湯気はほんのりと甘い。木枠の淡黄色の湯の花はビロードの手触りで、掛け流しが溢れてそよそよ揺れる様がこれまた面白い。ふと、流木の隙間から荒野を散策する客たちの傘が小さく見え、これは、と思って肩までを白濁に沈めた。その誰もが宝の在処を過ぎていくのをただ眺めるのである。火照ってくればのそりと岸に上がって、湯気立ち込める源泉を突いたり、もう一人の客の肩に湯をかけてやったりする。白い湯に使っていると山道の隅に残してきた石たちが無性に恋しくなって、そいつに別れを告げると湯から上がった。
ポカポカの身体を浴衣に包んで、決して逃がさないように帯をきつく締めると、小雨降る中を再びカポカポと歩き出した。私だけが知っている、あの山道の隅に戻ると、熊笹の上で宝石たちと目が合った。