浅葱の裏





いつもより2時間遅い朝には
食パンにハムと鶏卵を落として
トースターに放り込み
コップに一杯の牛乳を注ぐ

出窓からは緩やかに光が差し込み
植え込みにセキレイが留まる

全く、うつくしい朝である


そして、彼女との別れの朝である

電熱が照りつけるトーストの耳は香ばしく
太ももを枕に薄くシーツを被った黄金が
スヤスヤと眠っている

春の祝祭で手に入れた純白の皿に
その幸せを載せると
油断している黄身を一口に齧り付く

口の端から溢れる黄金を啜りながら
最後の朝餐を噛みしめるのだ

普段飲みもしない牛乳に喉を鳴らすと
一瞥もしたことがない十勝平野が広がり
青い風が吹いた

こんな日には
歯ブラシに山盛りのシトラスミントを載せて
顆粒を頬張るのである

美味い

爽やかな吐息を風に乗せれば
自転車に跨がった私は坂道を下るだけである

彼女との別れに向かっているというのに
この坂道と風が
私と彼女を乗せた車輪を転がして
約束の場所へ運んでいく


やがて、門前に立つ

私たちを出迎える女の目尻に
寄せられた皺は
マスクの下にも優しい微笑みを湛えている

促されるまま腰を下ろしたソファは
溺れるほど深く沈んだ





朗らかに名を呼ばれる



通された四畳半でしばらく待つと
この町で腕利きの介錯人だという男が
浅葱に身を包んで現れた

我々の記念写真を見遣ると
その男は僅かに微笑んだ


どうやら足癖の悪い彼女が
彼の好奇心を擽っているようであった

その微笑みの後、眩い光を遮るように
木漏れ日を透かしたような浅葱の布を被った

さようなら


影も無く照らされる君に
そっとお別れのキスをした



突如として、鋭い衝撃が刺さる

落雷はじわりと地に広がり
やがて一帯は交信を絶った



不織布を裁断するような小気味よい音に続き
頭蓋に甲高い回転が響く

下顎に男の全体重が乗ると
痺れた舌には0.9%の塩分がこびり付いた

一太刀では終わらなかった

沼の主を巣穴から引きずり出し
ATMをバールでこじ開け
岩盤を掘削する

技術を上回る圧倒的な力が
我々に屈服を迫る







私は手を挙げて降伏した



「はぁい、大丈夫ですよぉ」

助手だという女の
間の抜けた声に
指先が優しく握り込まれて
右手は空しく降ろされた

男はすかさず
私の口腔に拳をねじ込む

全く大丈夫じゃ無い
蝶番が外れそうなのである


嗚呼、遠くなっていく
君が遠くなっていく

霞ゆく意識の中、
浅葱の裏に友の人生を描いた


姉妹達の中で最も遅く生まれ
ハムエッグの味も トーストの香も知らず
シトラスミントの泡に
優しく頭を撫でられることも無かった

生まれたとき
生きる場所は既に無く
厄介者だと兄弟達に虐げられていた

故郷は進化の果てに縮小し
存在は営みに必要ないとされた

そうして初めて浴びる光は
君を終わりへと誘うのだ

そこで思う

君は今、誰よりも眩く生きている
まだ生きたいと叫んでいるんだ

私にはそれが

痛いほどに分かるのだ



痛いです、先生



親知らずが痛いです









やがて伸びきった下顎がふわりと軽くなり
道具が置かれる

終わったのだ


浅葱から抜け出し
私を迎える眩い光の中に
君はもういなかった


口を濯いで吐き出した君の涙は

この四畳半に失われた薄命を吐き出すような
鮮やかな赤を呈していた

私は君の居ない穴を埋めるように綿を噛み
君は銀盆の上で砕けて横たわる


友の変わり果てた姿を
終ぞ私は君を見ることはなかったのだった



領収書と共に
清潔なガーゼに包まれた君は
姿を模した棺に入って帰ってきた


折れた歯は牛乳に漬けておくと良い、と
私が初めて知ったのは
ガキ大将のドッジボールを顔面で受け止めた
小学4年の夏であった

今朝の牛乳は君を
優しく撫でることなく
虚しく食道に落ちていったのだろうか

棺と繋がれた輪ゴムを手首に結んだ

初めて逆上がりが出来たあのとき
初めて風船ガムが膨らんだあのとき
初めて靴紐を蝶々結びしたあのときの誇らしさと
痺れた下顎を抱きしめて
再び自転車に跨がった









さて、古代エジプトでは
権力者の死後、技術者によって防腐処理を施され
丁寧に埋葬された

臓器を取り出し、麻布で包むと
神の姿を模ったマスクを被せ棺の中に収められる

故人は死後の世界で
再び生を受けるとされ
生前の姿を残す事が重要であったのだ

時空を超えた現代日本では
抜けた乳歯を屋根に投げる
あるいは、地面に投げる風習がある

次に生えてくる永久歯が
真っ直ぐ萌出することを願うまじないである

つまり、来世での再生のまじないである

しかし
過ぎ去った時のように
失った生命のように
抜けた永久歯は二度と戻らない

ではどうすれば良いのか

その答えが左手首にある

職人によって神経を抜かれ
防腐処理されたのちに
ガーゼに包まれ
その姿を模した棺に収められた親知らず

肉体の保存と
再生のまじないが済んでいるのだ

志田の親知らずは
歯科医師たちによって
帰るところを失い
歯科医師によって
来世で神に転生するのだ


そんなこともしているのか、歯科医師

悔しい

生み出したのは私であるのに
私は何も出来ないというのか

上り坂にペダルを漕ぎ出す額に汗が滲む



残された私が君に出来ること
歯科医師には出来ないこと、、、、、


それが一つだけあった


人間の八十六あるという痕跡器官のうち
機能を成さず 
生命の営みに不要であるという
進化の果てに滅びゆく運命から解き放つのだ



左手に君を抱いたまま
坂道を登る

太陽は南中し
アスファルトに短い影を残す

赤信号

痒いはずの歯はもうない
噛みしめる歯ももうない


軒下に自転車を乗り捨てて
実家に飛び込んだ




「母よ、見てくれ」


親に知らしめると
棺の中の君は、カラカラと笑った















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