田螺の糸
神戸へ向かう新幹線の車窓から、田んぼの間を走る軽トラが見える。その畦道に、見事なほどに真っ白な髪と農協の帽子を思い出した。
祖父を亡くしたのは、小学校低学年の頃。
ピアノの発表会に買ってもらった一張羅。葬儀へ向かう道中、強請ってもないのにツインクルチョコレートを母は買ってくれた。前はダメって言ってたのに。
チョコレートを片手に乗ったのことのないタクシーの中で、はしゃいでいるのも私だけだった。
その頃の私にとって死とは、茹で上がったビオトープのザリガニだとか、ひっくり返ったベランダの蝉だった。
長旅を経て斎場に着くと私は途端に大人しくなった。祖父に会えると聞いて入った部屋にあったのは白い大きな箱と紫と白の花で埋め尽くされた祖父の写真だけだった。
式が始まっても、私は母の背に隠れていた。そんな私をわざわざ見つけ出した知らない大人が「大きくなったね」としみじみ語りかけてくるのも、恐ろしかった。
あの部屋で確かなのは、握りしめた母の手だけだったのだと思う。知らない呪文を唱えたり、木の粉の匂いを嗅いだり、それが一体なんの為なのか見当も付かない。聞いてみようと見上げても、ふいと目を背けてしまう。それがとても寂しくて、私の目にも涙が溢れ出た。母が泣いていることにずっと前から気付いていたけれど、母が泣くから私も悲しくて、なぜこっちを見てくれないんだと腹が立った。痛いくらいに握りしめると、母は自分の涙を拭うべきその手で、私の手をぎゅっと握り返してくれたのだ。
思い出しても、思い出しても、私と祖父の別れの記憶に、白い髪と農協の帽子が見つからないのだ。
米や野菜を育てるかたわら、機械いじりをするのが趣味だった祖父。大きな胡瓜を見つけて「とって、とって」と袖をゆすれば、私を抱き上げて取らせてくれる人だった。ガレージには年季の入ったセダン車と、軽トラ、SL模型、コンバイン、アンパンマン三輪車が並んでいて、祖父はそのすべてを自分で修理できる人だった。そして、そのすべてに幼い私を乗せてくれる人だった。
祖父母の家に行くと「また喧しいのが来たか」と、笑いながら歓迎してくれた。
些細なことでぐずった私を軽トラの助手席に乗せて、畦道をいつまでもドライブしてくれた。味を占めた私は最終的に、「私を早くドライブに連れて行け」とぐずったりした。電車に手を振ったり、工事現場のを眺めるだけで二人は楽しかった。
そんなドライブの最中、祖父は視界に入った全てのジャンボタニシを捕獲し、畦道に撒いて、私を乗せた軽トラで入念に轢いていた。タニシ蹂躙が倫理的かつ農学的にどうなのか私には分からないが、タニシへの復讐と子守りが両立させる祖父はやはり器用なのだ。
農作業終わりに夕日に染まる庭で白い煙を吐く姿を縁側の窓越しに何度か見たことがある。気になって「それって美味しいの?」と叫ぶと、硝子窓越しに親指を立てていた。タニシへの弔いだろう...疑いようもなく。
そんな復讐に心血を注ぐ祖父だが、私がこっそりポケットに入れて持ち帰ったタニ子のために、ペットボトルをくり抜いて水槽を作ってくれたりもした。ある朝、ペットボトル邸にオタマジャクシのタマ雄が婿入りして来た時は、大いに驚き喜んだ。
新幹線の窓辺で、軽トラはたちまち消えて、広大な田園風景の中に次の軽トラが現れる。あっという間に過ぎ去っていく季節の中で、私は何度も祖父を見つける。
生前に葬ったジャンボタマシイは多かれど、救った米の神は粒に八十八を乗ずるというから、計算上なんとかなっているはずだ。いや、相当な数のジャンボタニシを浄土へ送ったから、お釈迦も手に負えずお困りかもしれない。きっと祖父も重宝されるだろう。蓮の池のジョウドタニシの番をして、一番ウマい煙草を吸っている。天上が禁煙じゃなければ、そうして御池の水面に映る我々を見守っているに違いない。
でも、こちらの心配もいらない。もしもの時は祖父から助けたタニ子の糸がするすると私の上へ垂れてくる手筈になっている。


